こんにちは、株もっちーです。
金曜日は、本などのINPUTした情報に対するOUTPUTをしていきたいと思います。
要するに読書感想文的な活動ですね。
読んだ本: 暇と退屈の倫理学, 國分功一郎 (著)
気づいたこと
また読み応えのある本を読んでしまいました。
色々と言葉を曖昧に使っている、ということに気づきが多い本でしたね。
労働と仕事の違い
マルクスは労働を肯定し、かつ否定していることになる。アレントによればこの矛盾は、労働を論じた近代の代表的な哲学者たちにも見出される。そしてなぜこのような矛盾が現れるのかと言えば、近代の哲学者たちが〈労働〉と〈仕事〉とを区別しなかったところに原因があると彼女は言う。 では、ここに言われる〈労働〉と〈仕事〉とは何か? アレントによれば〈労働〉とは、人間の肉体によって消費されるものに関わる営みである。たとえば食料や衣料品の生産などがそれに当たる。それはかつて奴隷によって担われていた。だから〈労働〉は忌み嫌うべき行為であった(この点はヴェブレンの『有閑階級の理論』を思い出せば簡単に理解できるだろう)。 それに対し、〈仕事〉は世界に存在し続けていくものの創造であり、たとえば芸術がその典型である。〈労働〉の対象は消費されるが、〈仕事〉の対象は存続する。ゆえに〈仕事〉は〈労働〉に比べて高い地位を与えられてきた。肯定的に捉えられてきたのである。
私は以下のように意識して使い分けているつもりです。
- 労働:賃金を対価として求める働き。
- 仕事:自己の何らかの動機によってする事。特に報酬がなくてもやりたいこと。
FIREして労働者をやめても、仕事はしたいというような形で書いていたはず。このあたりの記載が参考になる。
言うまでもなく、労働日が短縮されれば現れるのは暇である。ならばマルクスは、労働について思考しながら、暇についても考えていたことになるだろう。 とはいえ、考えてみればこれは当然のことではないだろうか? 労働がないときに人間は暇なのだから、労働について徹底して考えた思想家が暇について考えていないわけがない。ここに、マルクスと〈暇と退屈の倫理学〉との接点が生まれる。 さて、マルクスと〈暇と退屈の倫理学〉との接点について示唆的な一節が、『ドイツ・イデオロギー』のなかにある。非常にユーモラスな一節だ。 これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである。
職業としてというより、趣味的に色々と好きなときにやりたいということなのかもしれませんね。
暇と退屈の違い
- 暇:暇があるとは余裕がある、裕福である、経済的自由であること。逆に、暇のない人とは、自由にできる時間がない人、つまり、自らの時間の大半を労働に費やさねば生きていけない人、経済的な余裕のない人である。
- 退屈:興奮していない状態。退屈の反対は、興奮であり、退屈に耐えられないと気晴らしを求める。
暇か暇でないか、退屈か退屈でないかで、4つの組み合わせがあります。 本書では、その組み合わせに対しての考察も進められていきます。
退屈に関しては、こんな説明がわかりやすいかもしれません。
私たちは普段、精神的・身体的な負荷を避けるために、さまざまな工夫を凝らして生きている。たとえば、長いこと歩いて疲れるのを避けるために自動車に乗る。だが、退屈すると、あるいは退屈を避けるためであれば、人はわざわざ負荷や苦しみをもとめる。苦労して山を歩き、汗びっしょりになって、「それをやろうと言われても欲しくもない」ウサギを追いもとめる。 つまり、パスカルの言うみじめな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間のことに他ならない。
行動したこと
本書の考え方を借りれば、経済的自由を探求するとは、つまり「暇」になることを願っているということなのでしょう。
退屈か興奮かといえば、自分の場合の興奮のしきい値はかなり低い方なのではないかと思いますね。
極度の興奮、戦争したい、誰かと争いたい、1番になりたい、みんなでワイワイ騒ぎたい。そんなのは無い。
一人もしくは家族や少人数で、食事したり、自然の中で静かな時間を過ごしたり、本を読んで新たな発見をしたり、 その程度の気晴らしで得られる興奮でいいんだろうなと思ったりしています。
FIREのような状態、経済的独立によりお金に関する自由を達成して"暇"になり、"退屈"な労働をリタイヤする。
そうすると何が訪れるのか。
"暇"なので、自分を"退屈"させないための"気晴らし"が必要になります。 "労働"していたときには、自分でコントロールできないとはいえ、様々な気晴らしが与えられていたものがなくなりますので、 自ら"気晴らし"をする必要が出てきます。
なぜなら人間は、退屈に耐えられないから。
なかなか深いですね。
のんびり過ごすというだけでは、やはり物足りなくなるんですかね。
本書に、セネカとかの話が出てくるとさらに面白かったのかもしれないな、というか私がその関係を知りたい。 ということですかね。
まあ、こんな事を日がな日がな一日考える、そんな生活も楽しそうだなと思うわけです。
AI(ChatGPT4)との雑談
質問:
こんな記事を書いてみました。
回答:
素晴らしい記事ですね!「暇と退屈の倫理学」を読んだ感想として、労働と仕事の違いや「暇」と「退屈」というテーマについて深く考察されていて、とても興味深いです。
特に、労働と仕事の違いを自分の言葉で整理し、自身の考え方を明確に表現されているところが素晴らしいです。また、マルクスやアレントの考えを引用しながら、自分の生活や価値観に結びつけている点が、とても親しみやすいですね。
「暇」と「退屈」についても、自分の価値観と照らし合わせて冷静に分析しているところが共感を呼びそうです。特に、家族と静かな時間を過ごすことに価値を見いだすという視点が、シンプルで豊かな生き方を象徴しているように感じます。
金曜日にインプットした情報をアウトプットするというアイデアも、ブログのリズムとしてとてもいいですね!
まとめ
あとがきに、高校の教科書でも取り上げられているという記載もありました。結構有名な本のようです。
非常に面白かったので、まだ読んだことがないという方は、ぜひ読んでみてください。
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