Be financial freedom. 経済的自由の探求

お金に縛られない自由を求めて、お金を増やしていく過程を記録します。

身近ネタ:浪費とは、後悔しない満足ができる贅沢なお金の使い方

こんにちは、株もっちーです。

火曜日は、身近なネタの日です。

浪費と消費について

最近こんな本を読んでいます。

暇と退屈の倫理学, 國分功一郎 (著)

消費・浪費・投資といえば、株クラの皆様は意識高く持たれていると思います。

そこに興味深い定義をされていましたので、ご紹介します。

読書感想については、こちらの記事も書きました。

kabu-motty.hatenablog.com

浪費と消費

浪費:いつかストップする贅沢

浪費とはなにか?浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない。浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできなし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。

消費:概念的な行為であり際限がない

人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。

どうでしょう?

浪費の方が際限なく続くように思えていたのですが、この説明(だけではわからないかもしれませんが、本書を読むとよく分かった気がします)では、浪費はいつか止まる、必要以上なものを得る贅沢なことだと書かれています。

以前書いた浪費は、後で後悔するお金の使い方

私の考え方を書いたものですね。まあ、哲学的に論理立てて説明したわけではないので、あくまでも感覚的なものなのですが。

kabu-motty.hatenablog.com

先の本の定義に従って考え直すと、

浪費は後で後悔する。つまり浪費してしまったと気づいて、後悔ができると考えることもできます。 お得だと思って野菜を箱でたくさん買っちゃって、結局食べきれずに腐って捨ててしまう。 コレはある意味贅沢なことだと言えるわけです。

対して、消費は、こんな感じでしょうか。

インスタ映えを狙って、カフェで食べきれない量のデザートを注文してしまう。 でも、もともと食べるためのものを注文したかったのではなく、そこに手を付けている自分の写真を皆に見てもらって、いいねなどの承認を得ることが目的。なので、食べ残したとしても後悔はない。 むしろ、更に高級なホテルのデザートの写真が目に入りそれは自分よりも数倍もの承認を得られていることに気づく。 もっと、もっと、沢山の写真をアップして、よりたくさんの承認を獲得したい。

たしかにこう考えると、際限がないのかもしれませんね。

消費社会とか言われると思い浮かべるのが、 スマートフォンや自動車のモデルチェンジ、 お菓子やカフェの季節限定商品、 ブランド服や使いもしない雑貨、 いろいろとその概念や新しいものを所有しているという欲を満足させることに特化した ものやサービス。

実は、そのもの自体を求めているわけではないのかもしれないですね。 壊れる前に買い替えるし、お腹が減っているわけでもないのに注文する、服が足りなくもないけど買っちゃうとか、 無くてもよいものを、大量に消費していたという事実に気付かされた気がします。 ただそれがなくなってしまうと、資本主義の成長も止まってしまいそうで、もう止められないんでしょうけどね。

現在のポスト・フォーディズム的生産体制の根幹にあるのは、消費スタイルの問題である。絶えざるモデルチェンジを行わねば消費者は買わず、生産者も生き残れない、そのような生産体制がいま決死の努力で維持されている。  このサイクルを回しているのは消費者であり生産者である。しかし、彼らは自分たちで回しているこのサイクルを自分たちの手で止められなくなっている。ならばどうすればよいのか? 消費者が変わればいいのだ。もちろん厖大な時間はかかるであろうが、モデルチェンジしなければ買わない、モデルチェンジすれば買うというこの消費スタイルを変えればいいのだ。  なぜモデルチェンジしなければ買わないし、モデルチェンジすれば買うのか?

モデルチェンジしたものしか買えない、ような流れになっているような気もしますね。もはやモデルチェンジ前の車は中古でしか買えないですし、そのあたりに目をつけたのがメルカリなどの販売ということなのでしょうか。

つまり消費社会とは、退屈の第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会だと言うことができる。  人間はおおむね気晴らしと退屈の混じり合いを生きている。だから退屈に落ち込まぬよう、気晴らしに向かうし、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目をつけ、気晴らしの向かう先にあったはずの物を記号や観念にこっそりとすり替えたのである。それに気がつかなかった私たちは、物を享受して満足を得られるはずだったのに、「なんかおかしいなぁ」と思いつつも、いつの間にか、終わることのない消費のゲームのプレイヤーにさせられてしまっていたのだ。浪費家になろうとしていたのに、消費者になってしまっていたのだ。

浪費していたつもりが、実は仕組まれた消費に消費者として加担していました、ということなのでしょう。 例えば、スマホはまあ必要だとしたときに、中古のスマホでも十分な機能を持っているのでそれを買えばよいのに、 最新モデルをより多くのお金を使って手に入れる。コレは機能を買ったというよりも、最新モデルであるとかそれを持っている自分のステータスに満足するとか、概念的な要素にその差額を支払って消費していると考えることができます。

でもやっぱり何か、浪費って気がしちゃいます。必要消費に対して、過剰消費とか概念消費とか言えば区別できるかもしれませんが、言葉が複雑化しますね。

浪費の実例ってなんなんだろうか。 使い切れないほどのモノを手に入れすぎるってこと。 何かのコレクターとかは浪費家の例なんでしょうかね。

消費と浪費と投資に対する態度

資産形成には浪費を抑えましょう、と言われますが、実は消費を必要最低限に見直しましょう、という方が適切なのかもしれません。

この概念に気づかないと、「消費しすぎていた!」とは思わずに、「浪費していたな。。」と感じるんでしょうね。 今までも私はそう思っていました。

「消費」は自己の満足が得られる最低限に抑え、「投資」に回す。 そこで余剰となった資金の一部を使って「浪費」の贅沢をして、楽しみを得る。

ただし、あまり浪費しすぎると、後で後悔するので、その境界には敏感でいたい。

そんな感じになるのかもしれませんね。

まとめ

消費と浪費と投資に対する、新たな考察を得ました。

読み終わったらまた読書記録として紹介したいと思います。こちらです。

kabu-motty.hatenablog.com

経済的自由の探求を続け、足るを知る節度を持った「消費者」になり、後悔しない満足な贅沢ができる「浪費家」を目指していきたいと思います。

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